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対話型生成AIサービスの台頭によって、人類の知的水準は加速度的に上昇していると感じる。
以前は本や論文を読み、あるいはWebサイトを参照(それもUndocumentedだったり間違ったりしていた)することでしか得られなかった知識が、今ではAIとの対話を通じて瞬時に手に入るようになった。文章やソフトウェアを書いている最中に、知識のホットリードが走っているかのように、必要な情報が次々と提供される。
現代においては、自身の思考をAIでJITコンパイルし、オンタイムでデバッグしながら漸近的に修正することを前提とした社会構造が、出来上がりつつある。(実際、この文章を書いてる最中にcopilotが文章の続きを書こうとしてて、それら全ての提案をガン無視しながら文章を進めている)
そうなると「間違えながら考える」ことが前提になって、人間のコアコンピタンスは知識の量ではなく、意思決定と価値判断の訂正速度と質にシフトしていくのではないかと感じる。無知であることは恥ではないが、知識の訂正や修正ができないことは致命的、という価値観が浸透していくと思う。
そうやってAI援用思考術がデフォルトになっていくと、人間は何を作るべきか、どの方向に進むべきか、停止や撤退の判断基準を何にするかといった、選択と決断の連続になっていくだろう。精神的負荷(判断の重さ)が増大する一方で、知識獲得の負荷は劇的に減少する。しかし価値判断だけはホットリードできない、別の意味で疲れる社会になりそうだ。「どう生きたいか」をAI越しに問われ続ける社会とも言い換えられるだろう。
行き着く先は人類の2極化で、AIを思考の拡張器として使う人々と、AIを思考の代替として使う人々に分かれるのではないかと予想している。後者は価値判断の放棄に繋がり、最終的にはAIに全てを委ねるようになる。宛ら、認知弱者に思考放棄させてbot化させるSNS上の認知ハック攻撃と同じだ。一方前者は価値判断の質と速度を高め続けることで、人類の知的水準を押し上げ続ける。
どちらが良い悪いではなく、両者は共存し続けるだろう。残念ながら、どの時代にだって救えない人間というのは、居る。ただ後者が増えすぎると社会全体の知的水準が下がり、前者の負担が増えることになる。そうならないためには、AIを思考の拡張器として使うことの価値を社会全体で高めていく必要がある。
自分は果たして今、前者であるのだろうか。少なくとも今はそう思っているが、その仮定を疑うべき条件変数は、まだ見つけられていない。
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