人類、twitterの再実装やりたすぎでは
Twitterの知財顧問だったStephen Jadie Coates氏がtwitter.newを立ち上げたそうだ。トップページの圧が強い。
"The Public Square Is Broken" という「思想」から始まり

"Then Burned It All Down"

(𝕏のカラーリングを借用してるあたりマジで許さん感が強い)
世間的にはtwitterが𝕏になったあたりをSNSのEnshittificationの発端と見る動きが強いようだ。 ここは日本でも世界でも凡そ同じ認識らしい。 しかし自分の感覚ではその遥か前、2011/03/11 関東大震災がきっかけで、Enshittificationした認識でいる。
というのも、2007-2009年あたりの初期twitterはどの国も大学生やエンジニア、研究者などが比較的目立つ印象だった。 当時はtwitter外部アプリ開発の黎明期であり、現在のようなAPIレート制限や有料プランは存在せず、実験主義的な 知的遊戯が歓迎される傾向があった。ユーザー平均の知的水準や認知能力は今よりやや高い集団が多かったのではないかと思う。 この頃は、まだEnshittificationの兆候は無かった。
明確にユーザーの品質がガタ落ちしたと感じたのは3.11だ。 震災後に日本政府が公的な情報発信をtwitterで行うと明言した後から日本人が大量流入した。 そのアカウント群は明らかに知的水準や認知能力の質が低い集団が多く、詐称や炎上狙いで インターネットが下手糞な者が多かったのは明白だった。子供ながらに「こんなんでも大人のフリして生きてるつもりで居るんだなあ」 とある意味関心したのを覚えている。
このような極度に知能が低下したアカウントはbotと差別化することはできないが、 これはその人間個人の問題でありサービスの問題ではない。にも関わらず、サービスの再設計と再定義をリセマラするのは、 その開発者にとっては車輪の再実装ではない認識なのだろう。しかしUGCのスケールは人間の頭数が必要で、 大抵はサービス最初期のアーリーアダプターや数少ない高水準な人間の駆逐を意味する。 必要なのはサービスの再設計ではなく、人間側の知的水準を底上げする事なのだ。
つまり人間側が成長しない事には、サービスはEnshittificationを避けられないのだ。
しかし世の後発twitter likeなSNSは、その観点を設計に盛り込む事無くサービスのグロースを目指し、そして失敗した。 近年のTech CommunityではSNSのマネタイズ可能性をやんわりと否定する傾向すらある。 twitterの再実装に失敗して死んだサービスが多すぎるからだ。 SNSは人間を収納する容器ではなく、その相互作用によって人間側の成長曲線をリデザインする観点を持つ必要がありそうだ。
twitter.newはどうだろうか。過去twitterの復権を目指すことは人間の収納容器でないとするだけの理由を、 私はまだ見つけられていない。
雑記
